
自分が過ごす日々の味が好きだ。
日々の取り組みの中で混ざる、いろいろなジャンルの味。
途絶えることなく進んでいく時間、その中で取り組む事柄。
取り組み。すこし大袈裟なことば。
ただ起きてから寝るまでにおける、自分の行動。
一日の仕事を終え、バナナを食べつつ着替えて走りに出るとき。
風呂を上がって全裸で冷蔵庫に向かい、キンキンの黒ラベル350mlを流し込むとき。
昼食を食べながら各種メディアから情報を得て、休憩明けにメンバーへそれに対する自分の感想を述べるとき。
月末月初の、靴紐を結び直すようなあの感覚。
有給休暇習得前日の焦燥感。
ネット通販で注文し、一夜明けた翌日、置き配通知をもとに取りに行くとき。
他人の意見が自分の中で消化されるまでの時間。
人が生きる時間は、得意不得意に関わらずタスクや取り組みが重なったマルチタスク状態が発生する。
この、重なった部分のマーブル状の時間が好きだ。
そのだいたいが自分で臨んだ時間ではない。
自然の流れでそうなることがほとんどだ。
人によっては一つのことだけに打ち込みたい。だからしっかり仕切り直して次に進みたいという人もいるだろう。
半数くらいはそうなんじゃないだろうか。
私もできればひとつひとつにしっかり対峙して丁寧に向き合いたいとは思っているが、その思いは大して強くない。
それよりも断然、偶然性を愛したいからだ。
最近は何事も思った通りにそのまま実現されてしまってはつまらないと感じてしまう。
やってできることは当たり前だからだ。
身も蓋もないことではあるが、そう思う。
やるだけではできないこと、思い通りにならないことへの取り組みは苦しくて楽しい。
その要素として、この取り組みが重なったマーブル状の時間がある。
Aという取り組みはうまく行っているが、Bという取り組みはあまり芳しくない。
そしてAとBが重なったことで、Aの結果や終え方がBに反映される。
AとBの取り組み結果がまた更にそのあとの取り組みにも影響していく。
マーブル模様は複雑に入り組んでいく。
そうして、時間だけが一定に進んでいく。
そのマーブル模様そのものが自分が過ごした時間そのものを表していく。
現れたマーブル模様を正確に振り返ることは難しいが、なんとなくの模様は分かる。
それを味わって、時間を歩んでいく。
このマーブル模様は、決して無に帰すことはできない。
たとえ過去を忘れても、自分自身に刻まれた模様は消えない。
一日分のマーブル模様、人生単位で刻まれたマーブル模様。
切り取り方によって、その模様は変わる。
例えば3ヶ月にフォーカスした時のマーブル模様。
私はフルマラソンの取り組みをメインに据えた生活をここから始めるぞ、といった時に意識する。
メインに据えてもそれはあくまでメイン。
メインの取り組みではあるが、100%すべてがそれの生活ではない。
理想のマーブル状にすることができず、悔しい思いをした先日のぐんまマラソン。

その悔しさは、一週間の時を経てから確かめてみると美味しかった。
結果だけを切り取れば、悔しさしかない。
何を綺麗事で自分の不甲斐なさを薄めているのだと言われそうだが、美味しかった。
何故なら、本気で取り組んできたからだ。
本気で取り組んで、年甲斐もなくナイーブにもなって、涙も流れないくらいに不甲斐ない思いをした。
その結果は散々だったが、まさに、やるだけではうまくいかないことにぶつかった。
やればうまくいくことでの成功より、より多くの旨み成分を得ることができた。
結果を出して、やったらうまくいったこととして振り返りたいが、そうじゃないものであっても今後も抱きしめていきたい。
もちろん妥協があると、このマーブル模様は汚く濁る。
全力での取り組みはマストだ。
ここの評価に他者は介在しない。
◯◯さんが良いと言ってくれたから、自分としては満足行かなかったけどいいや、といったものはない。
それで済むようなことなら自分の人生でわざわざやらなくてもいいだろう。
ああ、そうだ。
それで済むようなことなら自分の人生でわざわざやらなくてもいいだろう。
そういうことだ。
それで済むと気付けたなら、また違うことに取り組んでもいいな。
何を目指しているの。
どこに向かってるの。
そう言われているうちは、自分を信じていたい。