もう存在しない私、そして今でも。

担当の美容師にはもう10年ほどお世話になっている。

就職活動をして、バンド活動の勢いがなくなってきた頃から、ずっと切ってもらっている。20代前半だった私も気付けば30代前半だ。

当時流行っていたマッシュヘアを得意としているスタイリストを探して予約。
原宿のモダンなビルに構えたヘアサロンに彼はいた。

ヘアサロン激戦区の人気美容師というイメージにそぐわないフランクさと、くせ毛への高い理解を活かした施術に魅了された。

それからは二、三ヶ月に一度必ず顔を合わせている。
したがって、私の人生における節目の前後には彼に髪を切ってもらっている。


就職先が決まったときも、同棲を始めたときも、転職したときも、結婚したときも、昇進したときも。彼には施術中に都度報告していた。

一時間弱、マンツーマンで定期的に会う。
特に彼が原宿の店から独立して店を出したばかりの頃はアシスタント不在で、シャンプーを含めて完全にマンツーマンだったので濃い時間を過ごしていた。
下手すればちょっと仲良い友達より私の情報量を持つ人になっていた。

しかし、ヘアサロンという場所柄、プライベートな空間ではないので、一般的にマイナスと捉えられるな話はしてこなかった。

父親がある日突然蒸発したこと。
父親は見つかったが、以後の連絡を拒否していると警察から伝えられたこと。
妻ががんに侵されたこと。
妻が闘病の末に亡くなったこと。
弟が生まれつきの病気で衰弱して亡くなったこと。
原点回帰するため地元で一人暮らしを始めたこと。

何も話していない。
TPOを弁えると話せない。

それ故に、私の中で彼は不思議な立ち位置を確立していた。
私の人生における上昇線だけをたくさん知っていて、下降線をまったく知らない人。

友達には、共通の友達の繋がりやSNSの繋がりでメッシュ状に情報が編み込まれるので、良くも悪くもこういう関係の人はいない。


だから、私にとって彼は特別な存在になっていた。

お金を払い、私の髪を整えてくれるという役割からはかなり飛躍した存在だ。

彼と話すときの私は架空の私だ。

彼に伝えているライフイベントを曲げず、諸々の紆余曲折要素を排除した先の私。

存在しない人の話をしている。
存在しない架空の私のストーリー。
矛盾しないように、綻びがでないように、これが意外と頭を使うのだ。
平らな物事を必要以上に楽しむために頭を使っている。
自分自身の、こういう部分の貪欲さが好きだ。

それはさておき、彼の中で私は、年上の妻と用賀でDINKS生活を謳歌している。
そのうち子供が欲しいという話を何度かしていたので、気にしていることだろう。
ご近所だったのと、結婚時期が近かったこともあり、こういった色の話をよくしていた。

架空の私から、子供が出来たという報告が上がってこなくて気を揉んでいるかもしれない。
そんなドギマギ要素もスパイスとして楽しんでいる。
ひとでなし。


現実の私は来月引っ越しをする。

現実の私が付き合っている彼女と同棲するためだ。

ここで、話を混ぜてみた。

架空の私も引っ越すことにしてみて、彼に報告したのだ。
引越し先については曲げず、現実の私が引っ越すエリアを伝えた。

架空の私と現実の私の人生が少しリンクした。

さあ、ここから先、現実の私と架空の私の人生はどうなるだろう。
どう紡いでいこうか。どちらも私次第だ。

ただ、今をしっかり生きていこう。

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