リハビリの先で

2020年9月下旬

厳しいリハビリの先で退院の目処が立った。
最初は正直、暗い道のりの中に少しばかりの優しさを添えるためだけの提案だと思っていたし、実際に退院まで漕ぎ着けられるとは思っていなかった。

それくらい当初の余命一週間という宣告には重みがあった。
主治医からも、本人や家族の努力がなかったらまず不可能だったと言ってもらえた。
妻と年の近い女性の主治医が曇りのない顔でそう言ってくれたのは大きな励みになった。

暑い夏を越え、秋めいていく季節を妻と家で過ごせるのはとても嬉しいことだった。
二人の好きな季節だった。

リハビリの先でまた一緒に暮らせる。
ここでひとつ報われた。

主治医から電話で「どうしても旦那さんと家で過ごしたいという一心でリハビリを毎日頑張っていますよ。」と報告を受けたときは今までとは別の種類の涙が流れた。

このタイミングで妻のことについて連絡を取っていた人達に一報入れた。
日々状況が変わっていて予測がなかなか難しかったため、不確定なままで連絡をするのは気が引けるところもあった。

しかし今回は前向きな不確定事項だったこともあり、医療用ベッドの手配まで済んでいたのでこの時は気後れすることなく連絡ができた。

2020年9月24日

いよいよ退院当日。
8:30に病院へ着く必要があったため、午前休を取得した。
雨が降っていたのでこの日はバスで向かった。

事務手続きを済ませ、車椅子を押して妻が入院する病棟へ向かう。
開いてすぐの時間に行く病院はいつもと雰囲気が違かった。
慌ただしく動く人を余所目に、妻を迎えにまっすぐ進んだ。

退院前に一度、妻が入院していた病室に通された。
入院してから現在までの病気の状況についての振り返り共有、自宅療養の話、通院治療の話をされた。

退院時にいた部屋。
入院中に何度も部屋は変わったがこの部屋は広かったため、リハビリのない日は室内を歩くことで自主トレをしていたと話していた。

病気の状況について

抗がん剤治療が始まったこともあり、主に肺を侵していたがん細胞はその進行が抑制されているという説明があった。
原発不明がんであることや、入院時点で体力が落ちていたことが心配点として挙げられていた。
実際に初回の抗がん剤治療後に身体への負担が大き過ぎたため、治療を断念するという選択肢さえ浮上した。
本人の意思もあり、抗がん剤の量や種類を調整して治療は続けられている状態だった。

ずっと病院のベッドにいるよりは、家で身の回りのことやちょっとした家事を通して体力を戻せるというメリットも教えてもらった。
その中で週に二回ほどの通院をして、身体の状態確認や治療の継続をしていきましょうという話だった。

自宅療養について

自宅療養については、近くの訪問看護ステーションに担当してもらうことになったため、そこの所長さんと担当の看護師さんがいらしていた。
二人とも物腰の柔らかい方ですぐに打ち解けた。
ご近所トークも弾み、和やかな雰囲気で挨拶を終えた。
方針としては、私が在宅勤務のため、訪問看護については週一回におさえて身の回りのことは妻と私で協力してやることにした。

寝室に設置した医療ベッド。
もともと妻の布団を敷いていたスペースに設置し、マットレス代わりにもともと使っていた布団を上に敷いて使っていた。

通院治療について

通院治療については、両親の力を借りることにした。
在宅勤務とはいえ、ミーティングの時間なんかは外せないし緊急の連絡もある中で病院への送迎及び付き添いを週二、週三のペースで継続して行うことは可能か否か以前にその生活を想像することが出来なかった。
家計を支えるためにフルタイム勤務は前提として考えていた。

こちらから相談するよりも前の段階で両親から通院に関しては一切を任せてほしいと言ってもらえたので、素直に甘えることにした。
妻が私の仕事を応援してくれていることもあり、ここは両親にお願いしてしまった方が妻も気を遣わないで済むだろうという面もあった。

退院後、途中で両親に昼食を買ってもらい車で家に送ってもらった。
妻と車に乗るのは久しぶりのことだった。
妻は病院から家に向かう道を真剣に眺めていた。
二ヶ月弱振りの病院外の景色や人はさぞかし眩しく映っただろう。
オープンしたばかりの店や改装中の店に興味津々だった。

こうして自宅療養と通院治療を繰り返す日々が始まった。

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