
2020年8月中旬
それからの日々も毎日状況が変わっていった。
抗がん剤治療が開始されたため、日々病状に変化があった。
緊急入院当初は酸素吸入器がつけられ、抗がん剤治療が始まるまでの日々でその吸入量が増やされていっているような状態だった。
自力での呼吸が難しい。
そんな状態で開始された抗がん剤治療だったため、常に緊張感のある状態で過ごしていた。
それでも妻からの依頼は気の抜けたものが多かった。
マックのポテトが3本食べたい。
うまい棒の新作(のり塩味)が食べたい。
ミスドのドーナツポップが1つ食べたい。
つけ麺を2本食べたい。
量は食べられないけどその分だけ具体的なオーダーが日々流れてくる。
当時はかわいいなとか味濃いの好きだなとか思っていたけど、今思うと胸に来るものがある。
前提として、自分の死期が迫った状態での話だから。
その上で本当に食べたいものをオーダーする。
無下にせず二つ返事で応えられてよかった。
炎天下の中だったので食中毒にならぬよう保冷剤を忘れず気をつけて持参した。
本当はもっと食べたいものがあったんだと思う。
妻の性格からして、私になるべく負担をかけないように家や近場の店で調達できるもので、今の自分の状態で食べられるものを選りすぐって連絡してくれたんだと思う。
ここは想像に過ぎないがきっとそうだった。
つけ麺は、家でつくるタイプのものを茹でてタッパーにつけ汁と麺を別にして持っていった。麺は寂しすぎたので要望の2本より多めの5本を入れていった。
当時は自家製チャーシュー作りにハマっていたこともあり、一口大の欠片も添えた。
死ぬほど美味いという洒落にならない感想が聞こえてきたのでとても嬉しかった。
我ながらいい仕事をしたと思っている。
もちろん病院からは食べ物の持ち込み許可を予め得ていた。
病院食だけだと栄養を取る作業に近くなり気が滅入ってしまうし、好きなものを食べてほしい。
その思いは家族のみならず病院サイドも同じで救われる思いだった。
2020年9月
抗がん剤治療は進み肺の状態は良くなっていた。
酸素の量も減り、やがて呼吸器が外れることで看護師さんに連れられ病棟内を車椅子で移動する機会も増えていった。
しかし三週間ほど寝たきりで過ごした妻の身体は自分で支えられる状態ではなく、車椅子に座っているだけでも疲れてしまう状態だった。
もともと痩せ型だったこともあり、その足の細さはすぐに折れてしまうのではないかというほどになっていた。
当時は家に帰ることなど考えられなかったためそもそも頭になかったが、主治医から「自宅療養に切り替えられるかもしれない。」という話があった。
最近のがん治療は、環境が整っている場合は通院での治療が主流なのだという。
晩年を病院で過ごすよりは、できるだけ長く自宅で家族と過ごすことを推奨しているのだという。
もちろんがんの種類や環境に依るのだが、妻の場合は自宅療養ができるという話をもらった。
しかしもちろん前提条件はある。
そのためにはリハビリを乗り越えないといけない。
本人にも自宅療養の話をしたらとても乗り気で早く家に帰りたいのだという。
がんに侵され長い寝たきり生活を送った状態の身体のため、リハビリは過酷なものになるが、それでも妻は家に帰りたいのだという。
できることはなんでもやろう。
その気持ちを持っていたのは家族だけでなく本人も同じだった。
むしろ私なんかよりよっぽど強い意志を持っていたのだと思う。
途中で諦めてもいいから。
病院からはそう言ってもらえていたが妻は強い気持ちを持って毎日のリハビリに臨んでいた。
抗がん剤の副作用で全身の毛が抜け落ちる中。
気持ちを落とす原因がそこら中に転がっている中。
妻の気持ちは折れることなくリハビリは続いた。

たくさんの管が巡らせられた痛々しい姿を上回る気力を感じた。
あとかわいい。
やがて退院は具体的なものになり、担当についてくれたソーシャルワーカーからは退院に向けた家側の準備の話が進められた。
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家中の段差の高さを測る
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家中の段差の写真を送る
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医療用ベッドの手配
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風呂用の椅子の手配
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杖の手配

それぞれすぐ対応した。
医療用ベッドはレンタルすることにし、風呂用の椅子は通販で買った。
杖については妻の祖母が使っていたのものを母が保管していたのでそれを形見として利用することになった。
こうして8月の頭には余命一週間と宣告された妻が家に帰ってくる手筈が整ってきた。
半ば信じられないことだったが、退院するその日を心待ちに毎日をひたすら繰り返した。