生存者バイアスと余白。

バイアスという言葉が独り歩きしている。
SNSを眺めているとよく思う。

認知バイアス。
確証バイアス。
生存者バイアス。

その他にも、普段意識しない様々なバイアスがこの世界には存在している。

バイアス。偏り。偏見。先入観。
バイアスというワード自体に、基本的にネガティブなイメージが付きまとっているように思える。

その中でも、生存者バイアスについては私自身に密接に関わるものだと考えている。


思ったより長くなってしまったのと、まとまりきらず発散してしまったのとで困ったので先に結論を書いておく。

  1. 生存者バイアスの掛かった見方そのものは悪いものではないと考えている。

  2. 生存者バイアスはその人がその人の人生を歩んできたからこその結果とも捉えられる。

  3. 体力を使って物事を咀嚼することで、ようやく意見と対峙する事が出来る。

  4. 生存者バイアスの掛かった意見を消化するには体力を使う必要がある。

  5. まずは受け手側で予め余裕・余白を持ち、その意見を咀嚼することが必要。

  6. 完璧で正しい意見だけの世界にならないためには、受け手側のレベルを上げる必要がある。

  7. それでこそ、本当に多様性を受容できる世界へ近づけるのではないか。

  8. 受け手が消化した意見は、最初の口当たりに対してマイルドになり、結果として有用である可能性もある。

  9. 自分の人生の主人公は自分自身である。

  10. 人がどう在るかはあくまで参考程度にして、自分の人生の栄養に変えられる受け取り方ができるように努めよう。

以下、まとまりのない思いをつらつらと書いていく。


人それぞれの生存者バイアス。

生存者バイアス。

誰もが何かしらで掛かっているバイアスだと思う。

私自身が持つ生存者バイアスのかかった思想。
それは、例え最愛の妻を亡くしても人生を活き活きと楽しんで過ごすことが出来るということ。

それを他人に押し付ける気はなく、ただ自分の中で事実としてそう在ればいいと思っている。

妻を亡くしてからもう22ヶ月弱の時が経つ。
季節はもう二周目を完走しようとしている。
人と会話する中で、定期的に妻の亡くした話になる。
問われて答えることもあれば、会話の流れで自分から切り出すこともある。
そこでは生存者バイアスが掛かっているであろう話をする。
私が生きてきた結果をそのまま話すから、自然とそうなる。

今の私にとって、最愛の妻を亡くしたということは、変えられない事実であり、間違いなく経験したことであり、ただひとつの事象である。

脚色の必要がない。
ただひとつの事象。
そして変えられない事実。
何故なら間違いなく経験したことだから。

ただその事実だけがある。


バイアスの掛かった人生。

それでも私は元気に日々を過ごしている。

もうこれは下手をするとバイアスの掛かった人生といってもいいかもしれない。

根っから元気な訳がない。
思い込みだ、お前は不幸だ。
仮に元気だとしたらその愛は嘘だ。
妻を亡くして地面をそんなに走っている訳がない。
走って現実逃避してるつもりか?
空元気はよせ。
元気・ポジティブが痛々しい。
その人生はポーズか?

SNSに溢れる赤の他人の誹謗中傷を模倣し、自身を切り離してから俯瞰して掛ける精一杯の言葉たち。
こんなもんだろうか。

自分で考えた言葉だからだろうが、仮にこれらの言葉を投げつけられたとしても何も届かないし響かない。


強いバイアスと独自性の高い人生。

2020年8月、もしくは2021年9月、或いはその前後。
当時の瞬間的な絶望からは考えられないほど、今私は自分の人生を楽しむことができている。

この素直な一文を切り取っても生存者バイアス盛り盛りな意見だと思われるかもしれない。

それは時代であり、思い込みであり、押し付けだ。
皆が自分の人生を主体的に生きていて、他人に対する妬み嫉み僻みが強くなければこういった意見はきっと生まれない。

しかし、今はそういう時代だ。
ここはある程度諦めざるを得ない。
何より、自分の絶対的な幸福度とは一切関係がない。

生存者側(何かしらの成功を収めた者)が声を大にして自分はやれたと発信することで、それを受け取った失敗者は自身を否定されたような気がしてしまい、誹謗中傷という結果に至ったりする。


生存者バイアス≠悪。

生存者バイアスの掛かった意見そのものには基本的に悪性がない。
私個人としてはそう考えている。

何故なら、その人がその人の人生を生きているからこそ掛かったバイアスだからだ。

その、生存者バイアスの掛かった思想・意見を、その人の背景や過程を考慮せずに口に含むから歪む。

人の意見を一度受け入れる覚悟のないものは口にしない方がいい。
歪むから。

しかし現代に生きる人のかたちをした何かは、何でもかんでも丸呑みする。
そして異物と判断し、消化しきれず吐き出す。
吐き出したもののせいにして、丸呑みした自分を正当化する。
そして、それらを丸呑みした事実を含む脳内キャッシュは、都合よくすぐに消す。

悲しいがそういう生き物もいる。


発信されたものに正面から対峙する覚悟。

私は今後も生存者バイアスの掛かった思想や言葉を、体力を使って咀嚼し、積極的に味わっていきたい。
正しさに侵された、当たり障りのない言動は要らない。
偏見に塗れた、人間らしく異臭の漂う思想を愛していきたい。

物事を消化するには体力を使う。
食事と同じだ。

消化する体力を引き換えにすることを認知せずに貪り食っていては消化不良を起こし、異なった解釈をしてしまったり、攻撃性を帯びた見当違いのメンションを飛ばしたりする。


味気ない正しさに屈しない。

バイアスを嫌うこの世ではフラットであることの価値が相対的に上がっている。

フラットにものを見ることが出来る人は、当たり障りがなく、平等性高く、感情の起伏が小さく、落ち着いていて、余裕がある。
そんなイメージを持たれることが多いかと思う。

物事を多角的に見て、それぞれの角度ごとに変わる景色を汲んだ結果にアウトプットされるフラットさ。

ただ当たり障りのないように逃げた結果としての薄いフラットさとは訳が違う。

角度ごとに変わる景色を眺めている最中にはきっと大小様々なバイアスが掛かるだろう。
ただ、そのポイント(点)が増えれば増えるほど、バイアスがバイアスを引っ張り、尖った偏見の角が取れていき、滑らかで口当たりのいい意見がアウトプットされる。

それはそれでいい。

現代、特にSNS上で叩かれないためにはこのように、様々な角度を見た上で何かを述べないと、360度から叩かれる可能性がある。
嫌な時代だ。

完璧な意見。正しい意見。

味気ない。
私はそれを味気ないと感じてしまう。
そこまで噛まれたガムは、もう味がしない。


余白の重要性。

ここまで書いてみて思ったことはひとつ。
私はもっと余白を楽しみたい。

だからこそ、理論武装された正しくて味気のない意見より、偏見で突き抜けていたとしても議論の余地がある意見を愛したい。

テレビCMや雑誌広告の※の数。
煙草のパッケージを蝕む健康被害文章。

私達には、物事を(歪ませることなく)受け入れるための余白が必要だ。


余白の楽しみ方。

余白を楽しむということ。
それは本当の意味での多様性を受け入れるということに近いのかもしれない。

多様性を語る上では、ホワイトボックスにはきっと穴があり、予め持った余白をブラックボックスとして構えておく方が歪みが少ないように思える。

人が定めた正しさ。ルールとしての正しさ。

現代において多様化した意見。背景。人生。

全員に100%同じ意味を同じ解像度で受け取ってもらうことは不可能だ。

そしてそれが孕んでいるある種の有機性は、面白いものだとも思う。

生存者バイアスからは最終的に大きく逸れてしまったが、最近思うことに共通しているのは余白の少なさが災いしているのではないかという結論に至った。

もちろんブレの大きさが大きくなることとトレードオフの関係があるので、発信する側の濫用は避けた方がいいとは思う。

受け手側として物事に触れる時は、その対象の余白を考慮して味わいたい。
真正面だけを見てカウンターパンチを出すようなことはせずにまずは角度を変えてみる。

生存者バイアスのかかった意見は、ある種その体験をした上でその人が生きながらえた(事象に対して成功した)からこそ出せる、とても貴重なものである。
その方面だけを参考にして活かすのは、受け手側からすれば危険だが、自分の人生のみでは得られない貴重な意見であることには変わりないだろう。

あくまで自分の人生の主人公は自分自身だ。
他人が輝いていようと、それは他人の物語である。
その人を全力でこき下ろしても、自分の人生のステージは一つも上がらない。
視座と共に下がっていく一方だ。


自分の人生を生きるということ。

自分の人生を生きよう。
余裕を持てとか落ち着けとか、そういう言葉を掛けられると逆上してしまうような瞬間もあるだろうが、視点を他者から自分に移すことから始めよう。

人生の大切な時間をかけて、自分と向き合おう。

そこで見えた不足を元に、他者の意見を聞こう。

順番を間違えないように。

余白を大事にして。

一歩ずつ思考を繰り返していこう。

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