所以

2021年6月

宿泊の続き

東京の宿で静かな非日常を過ごした。

「このタイミングで来られてよかったね。」
「また治療頑張るね。」
「次はみんなで行けるといいな。」
「チェックアウトのとき、シュークリーム忘れないようにしないとね。」
「かつらも忘れないようにしないと。」
「凌くんも忘れ物気をつけてね。」

大きなベッドで微睡みながら交わした会話を覚えている。
思い返すと常々私の心配をしてくれていたな。

妻は満足したようで、少しのいびきをかきながら大きなベッドで気持ちよさそうに眠りについた。


翌朝もいい天気だった。

7時に起きてのんびりと支度をする。
8時手前に朝ごはんを食べに移動する。

朝もしっかり美味しかった。大満足。

デザートとして、妻が苦手なキウイが出てきた。
私は日常的にグリーンスムージー生活をしていたが、妻はひたすらキウイを拒んできた。

「よりによって、今日か〜。」

妻の嘆き。

「キウイはがんに効くみたいよ。」
勇気を出して食べてみればと唆す。

すると、一度もキウイを食べなかった妻が一呼吸おいてキウイを食べた。

静かな食事処で静かにその記念すべき行動を讃えた。

「意外とイケるけど、もういいかな。」
妻はそう言ってオレンジを食べて口直しをしていた。

妻が食べたキウイ。よく食べました。

朝食を済ませて旅館の周りを散策する。
お互いコーヒーが好きなので、アイスコーヒーを求めて歩いた。

世田谷代田は隣の下北沢とはまた違う雰囲気。
道幅が気持ち広い気がする。

妻の歩みに合わせ、同じスピードで景色を引き付ける。
この幸せな時間を味わって歩く。

本当の意味で“今”に集中することには鍛錬が必要だと、私は思う。

通りかかったビーガンショップでアイスコーヒーを買う。

「雰囲気が似ていますね。」
お店の方に話しかけられ、照れ臭そうに返す。

妻と居るときに何度も言われたことがあったが、嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、そんなことはないとも思う。

そういえば、note初投稿記事のヘッダー画像は由縁の前で撮ったんだった。

一年と二ヶ月|nakanoryo
皆さまへ 妻、由理は子宮体がん闘病の末、2021年9月26日に逝去しました。 お世話になった皆様へ、生前のご厚誼に深く感謝するとともに謹んでお知らせ致します。 突然の報告となり申し訳ありません。 一度にすべてを伝えることは困難なため、今回は...


コーヒーを片手に部屋へ戻る。

縁側で飲むコーヒー。

帰りも妻の両親が世田谷代田駅まで車で迎えに来てくれる。
VIP待遇だ。

到着のタイミングに合わせてチェックアウトし、駅の方へ向かう。
ほんの3分ほどの道程も、旅館の非日常と街にただよう休日の匂いが相俟って特別に感じた。

本当に良い時間を過ごせた。

車中で旅館の感想を両親に伝えながら移動する。

トトロのシュークリームを渡して、両親へお礼を伝える。
次の通院日程を確認して、マンション前で別れる。

また、頑張っていこう。

お互いが狂うことなく精神状態を保てていた。
その所以はお互いの存在があったからだと、私はそう思う。

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