
最近のマイブームは迷子になることだ。
物理的に、迷子になることだ。
一年以上の期間、月間平均300km以上をコンスタントに走ってきて、着地衝撃で頭のネジが少しずつ緩んているのかもしれない。
いや、そんなことを言ったら世のシリアスランナー達に失礼だ。
今の私には多少負荷が高く、大きな余裕を持って日々を過ごすことが出来ていないからこそ迷い込んだ道なのだろう。
ただ、精神的に病んでいるわけではない。
心身ともに至って健康だ。
何より。忙しく過ごしている方が楽しい。性に合っている。
そんな私が迷子になることへ何を見出しているのかを書いていきたいと思う。
迷子になることで味わえる魅力はざっくり3つある。
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筋書きのないゲーム性
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トライアンドエラーによる土地鑑の向上
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脳のリソースを割くことによる夢中性
これらをひとつずつ解説していく。
至って真面目だ。
1.筋書きのないゲーム性
迷子は突然に。
そう、後にも先にも筋書きがない。
日常生活ではだいたいの物事がある程度の筋書き通りに進んでいく。
しかし迷子になる時は前触れがない。
正確には迷子状態の開始ポイントがあるのだろうが、私には迷子になる才能があるため、前触れを検知せずこのゲームの醍醐味を存分に味わうことが出来る。
尚、迷子になった際はそのまま道を引き返すことはしないレギュレーションを敷いている。
それはつまらないからだ。
ジョギング中に道に迷っても、練習効果には影響がない。
なので、引き返すことはせずにそのままこの迷子ゲームを楽しむ。
地元を走っていても、知らない道は案外たくさんある。
一本逸れるだけで、時間帯が違うだけで、季節が違うだけで。
街は顔を変える。
そんな初対面の道と対峙し、知っている道を前に進みながら探すのはなかなか楽しい。
ああ、ここね。
知ってる知ってる。
と、なってから実際に知ってる道に出て迷子終了になることもあれば、前触れなく急に知ってる道に出て拍子抜けすることもある。
どちらも、昔流行ったアハ体験に近い脳内物質が分泌される感覚を覚える。
2.トライアンドエラーによる土地鑑の向上
システムエンジニアという職業柄、日々トライアンドエラーの連続だ。
試行を繰り返し、論理的に事象の切り分けをしながら作業を進めて道を拓く。
何かしらに可能性を見出して突破口を探す作業。
迷子状態からの復帰にも近いものを感じる。
こっちの道かな、あっちの道かな。
この道は地味に曲がってるから方角がちょっとズレそう。
多分これを左に行ったらさっき迷い始めたところの近くに出そう。
ああ、やっぱり。
ここね。
それを繰り返すことで、馴染みのなかった道も「一度迷ったことがある道」に昇格する。
その道と道が繋がり、土地鑑が向上する。
自分の住む街のことは詳しく在りたい。
地図は好きだが方向音痴な私は、自身の体験を通して地図を身体にインプットしたい。
これは余談だが、土地勘というのは誤用だそうで、本来は土地鑑だったそう。元は警察用語だということも初めて知った。
3.脳のリソースを割くことによる夢中性
これは本来ランニングをすることで担保出来ていた要素である。
しかし今となっては、練習のメインとなる日々のジョギング程度の負荷では夢中になるほどの負荷には及ばない。
そこで迷子だ。
私は何を言っているのだろう。
うん、そこで迷子だ。
迷子になったら、基本的には迷子状態を解消する必要がある。
どの方向に進むか。
ここから家までだいたいどのくらいか。
予定の時間までに帰ることができるか。
迷子状態の解消には都度判断が必要である。
曲がる判断をせずにそのまま前へ突き進んでしまったらきっと家からは遠ざかってしまう。
ギリギリまでスマホで地図は見ない。
それはつまらないからだ。
町にある町内会の地図のようなローカルなものは見る。
あとは道路標識とか。
それらはつまらなくないから見る。
ありものでどうにかできるか否かでこのゲーム性を楽しんでいるのかもしれない。
しかし、後に予定を控えている場合は背に腹は代えられない。
クイズにギブアップするように、スマホでGoogle Mapを開く。
スマホを開くと、せっかく街と一体になったような感覚を得ていたとしても引き返されてしまう。
水を差された気分になるので、なるべく頼りたくない。
おわりに。
横道に逸れることで、本筋に新たな楽しみを見出す面もある。
私はそれを迷子を楽しむことで学んだ。
疲れ果てて立ち止まってしまうよりは、迷いながらもコツコツと前進する方が性に合っている。
メリハリも0 or 100だけではなく、グラデーションを付けていい。
15%の努力度の迷子ジョグの翌日に85%の努力度のインターバル走を実施したっていい。
迷子になってもいい、バランスを取っていこう。
焦らずにコツコツと、ゆっくりでも前に進もう。
結局それだけだ。